タイトルだけ読むと
ちょっと傲慢な感じに
捉えられるかもしれませんね(^_^;)
でもこれ
本当にそうだと
私は思うのです。
言霊学で私は
「自分」とは
自らを分けて
自らを分かる者ということを
学びました。
すべての現象
すべての存在を
目の当たりにして
耳にして
自分はどんな反応を示すのか。
ここにスポットを当てるのが
本来の自分なのです。
もしもこの世界に
自分しか存在していなかったとしたら
自分が感じているこの意識は
一体何なのか…
恐らく知る由も無いでしょう。
な~んにも無かった世界に
ある時突然生まれた一つの意識。
これが天之御中主の意識で
言霊ウです。
私たちも毎晩
眠って顕在意識を
埋没させます。
そして
目覚めの時を迎えると
顕在意識が
少しずつハッキリとしてきます。
この時に
私たちは思わず
「ウー」と言って
伸びをしたりします。
最初の目覚めの意識が
言霊ウであることを
潜在意識では
わかっているかのようです。
この最初に生まれた意識は
この自覚は何だろう?と
思うわけです。
そうして
それを知るために
あらゆる意識と働きが
細胞分裂のように
次々と生まれてくることになります。
ウの次に生まれたのが
言霊アとワ。
その神名は
高御産巣日の神と
神産巣日の神。
見る側(主体)と
見られる側(客体)に分かれるのです。
鏡を見る自分と
鏡の中の自分といった感じ。
感情の意識次元です。
私たちが感情を表現する時
思わず「ああ」と
言ってしまうのも頷けます。
さらに今度は
オとヲが生まれます。
すべての言霊には
神名が付いていますが
ここでは割愛します。
ご興味ある方は
言霊学による古事記読み解きという
カテゴリーの記事をお読みください。
ここは
経験・体験・知識・記憶といった
意識次元です。
「なるほど」と思った時に
思わず「オー」と発するのは
この意識次元に
呼応しているということ。
次にエとヱ。
これは道徳的意識次元。
起きてきた問題だけに
とらわれるのではなくて
どうすれば
もっと良くなるかという
発展的な意識次元です。
「え~」と発するのは
どれが相応しいか
選んでいる時に多いですね。
それからイとヰ。
この神名が
これは意そのもの。
どんな意識も
どんな機能も
これを使おうという
意が無ければ
まったく意味を成しません。
意という漢字は
分解すると
日(神)の心の上に立つです。
何かを意図することが
すでに神事だということです。
ここまでの意識と機能は
私たちの潜在意識や
集合意識という
深いところにあるもの。
このあと
チイキミシリヒニという
父音と母音を掛け合わせて
タトヨツテヤユエケメ
クムスルソセホヘ
フモハヌラサロレ
ノネカマナコという
子音を生んでいきます。
いよいよ私たちが
感覚として
自覚できる世界のことです。
ズラズラっと生まれてくる
32の言霊の最初と
最後を見てください。
タで誕生して
ナで名がついて
コで子(個)として生まれる。
面白いのは
子として生まれてくる前に
既に名前が決まっているということ。
私たちの名前は
名付け親が付けたものですが
実は名付け親にその子の魂が
インスピレーションで
送っていると言われています。
名とはそのものが
どんなものであるかを
表していますね。
すべての存在
すべての現象には
名が付いています。
ナはローマ字にするとNA。
Nには煮詰める力動があります。
A(ア)は主体であり
感情の次元でしたね。
優しいコ
怒りっぽいコ
泣き虫なコ
コにはいろんな性格があります。
主体を一言で表すと名になるのです。
自分の名前は
自分で決め
そしてそれは
今世における
自分の看板であるわけです。
八百屋とあれば
野菜を売っているところ
病院とあれば
病気を診てくれるところ
とみんながわかるように
看板が付いています。
だから
自分の名前を構成する
言霊の意味を知れば
今回の人生の目的や
役割がわかるということです。
ここまでで登場した言霊は48音。
最後の最後にンが生まれます。
一番最初にウが生まれて
一番最後がンです。
私たちは何かを掌握した時
「ウン」と言いますね。
これがただの偶然とは
とても思えません。
さて言霊学の解説が
少し長くなってしまいましたが
要は最初に生まれた
天之御中主の意識が
これは何だ?と
自らを分け始めたのがキッカケで
たくさんの意識と機能が
生まれてきたのです。
天之御中主とは
天の真ん中にいる主ですね。
世界の中心にいるのは
一体誰でしょうか?
世界とは皆が
同じに見えるわけではありません。
その人の性格
経験・体験・知識
エゴの強さの違いなどによって
見え方はさまざまに変わってきます。
ということは
自分が見ている世界の
真ん中にいるのは
自分だということになります。
自分は自分を中心にして
世界を体験しているのは
間違いのないことですね。
つまり天之御中主というのは
自分のことなのです。
これを崇めるもの
すがるものとしてしまったから
世界はおかしくなってしまったのです。
天之御中主である自分が
いろんな世界を展開させて
自分というものを分かっていく。
どんなことに自分の心が
どのように反応するのか
そしてそれがどうしてなのかと
意識を自分の中に向けて
自分のことを知っていく。
他人に対して
許せないことは
自分に対しても許していないこと。
それがわかったら
それを許すのです。
相手ではなくて
許せない自分を許す。
何かいけないことを
してしまった時に
許しを得られたら
どんな氣持ちになりますか?
たいていは
安心して
心が軽くなるものです。
自分を許すのでも
同じ感覚を味わうことができます。
心に背負っている
罪悪感(十字架)が減るからです。
ここまで来ると
相手を許せるようになります。
何なら許しを飛び越えて
感謝に変わりさえします。
今記事のタイトルの意味
分かっていただけたでしょうか。
すべては自分を知るために
自分の見る世界に展開されている。
このことを知れば
すべてのものに
心から感謝できるはずです。
条件反射的に
言動を取ってしまって
瞬間瞬間でうまく
出来なくたっていいのです。
すべては起きるべくして起きている。
私たちは
それぞれにそれぞれの役割を
知らず知らずに
果たし合っています。
時には
自分が相手にとっての
悪役をすることも
あるということです。
お互いにそうすることで
魂を磨き合っているに過ぎません。
許せないという制限で
本当に苦しんでいるのは
実は自分自身なのです。
「許せない」を感じて
神(自分)の知るところとなったら
神として許してあげましょう。