人生に行き詰ったら読むblog♪

氣づきプレゼンターみきっぺのブログ♪

最後かもしれない

ちょっと日は経ってしまったのですが、

softwindさんのこちらのブログにあった

「最後だとわかっていたなら」という詩を読みました。

こちらはアメリカのノーマ・コーネット・マレックさん

亡くなられた息子さんを思って書かれた詩だそうです。

kihaseason2015.hatenablog.com

 

また、その2日前にTwitterでこのような記事も。

 

 3/11といえば、東日本大震災があった日。

大事な人を突然失う経験をされた方が多くいらした日ですね。

 

いつも当たり前にある毎日だと思っていたり、

一緒にいることが当たり前だと思っている家族。

毎日毎日当たり前だと思って勘違いしていしまている日常。

当たり前に仕事に行き、

当たり前に明日も今日と同じような1日を過ごす。

明日もあると思うから、

人間はある意味、生きていけるのかもしれません。

 

だけど、当たり前じゃない経験をされた方もたくさんいます。

私とあなたの明日は間違いなく来るのでしょうか?

私が今、パソコンに向かい、ブログを書いているのも、

もしかしたらこれが最後になるかもってことも考えられるわけです。

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明日もあると思うから、

どこかで妥協してしまったり、

出し惜しみしてしまったりってことがあると思います。

明日が無いと思ったら、

もうこれが最後だと思ったら、

今日一日、どんな心持ちで仕事をしますか?

家族と友人とどんな会話をしますか?

 

 

 

もしこれが最後だと思ったら、

一分一秒が途端にかけがえのないものに思えてきます。

そうなったらやらないだろうなっていう

日常の習慣ってありませんか?

私の場合はゲームでしたね、ツムツムっていう。

恥ずかしながら、

休み1日をつぎ込んだこともあります(;^ω^)

その時はそれをしているのが楽しかったわけですが、

振り返ってみると、

何とも中身のない時間を過ごしてしまったなと

今になって思います。

でもま、あの時があったからこそ、

今の自分がいるということも認めざるを得ないところです。

 

もし今日が最後だと思ったら、

例えば、行きたくないやりがいのない仕事も、

急に愛しく感じたりしますよね。

顔も見たくないほど嫌いと思う人でも、

今日で最後かもしれないと思ったら、

許せそうな気がしてきませんか?

 

生前どんなに皆に嫌われていた人でも、

亡くなって、もう会えないんだと思ったとたんに、

「なんやかんや言ってもいい人だったよね」って

言葉が聞かれたりします。

単なる同僚で、

特別な思い入れなんてないって人でも、

「出会った」ということは縁があるということ。

縁が無ければすれ違うことすらありません。

袖振り合うも他生の縁

…って言いますもんね。

 

いつ何時もそれを頭に入れて過ごそうってのは

難しいことかもしれませんし、

そんなことばっかり考えていたら、

うつうつとしてくるかもしれません。

でも、時には、

これが最後かもしれない

…ということを感じてみると

人生の質が上がってくるのではないかと思いました。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

そんなあなたが大好きです。

 

ブクマにコメントありがとうございます(⋈◍>◡<◍)。✧♡

id:skyayaさま、私だってすぐに忘れちゃって自我にやられ気味になることは多々ありますよ。これは自分に対する戒めですね(;^ω^)

id:kame710さま、そうですね、生きている者はみな、今生かされているこの一瞬一瞬を大事に生きるべきですよね。

id:sennichさま、私もです。号泣しました(;^ω^)

id:ColdSnapさま、私もそう思ってましたよ。でも同音異義語は全く違う意味ってわけでもないんですよね。

id:mashley_sltさま、未来に目標を持つことももちろん大事です、だから素敵なマイホームが実現するわけですからね(o^―^o)ニコ いまここも忘れちゃいけないよってことなんでしょうね。

id:UrushiUshiruさま、そうですね。確かに転職のタイミングがそれで計れるかもしれません(;^ω^) 妥協して生きることほど生まれてきた喜びの背く行為の様な気がしますね。

id:kemoxxxxxさま、「時は金なり」って言葉があるけど、それ以上だなって思うよね。「時間をつぶす」ってなんてもったいない発想だろうと今は思うよ。