一昨日、ライブ配信で、
このテーマでお話をさせてもらいました。
あなたは神を信じますか?
先日amazonプライムで観た「奇蹟がくれた数式」という映画に、
考えさせられたことがあったんですね。
※ここからネタバレありますのでご注意を。
この映画は実際にあったお話で、
今から100年ほど前の
インドの学位を持たない数学の天才ラマヌジャンと
イギリス・ケンブリッジ大学の数学者ハーディーとの物語です。
ラマヌジャンは無学にもかかわらず、
いろんな数式を次々と見出すものの、
身分が低いゆえにせっかくの発見を発表する術がありませんでした。
そこで縁あって導かれたイギリスに渡り、
ハーディーのサポートのもと、
発見した数式を世の役に立たせるべく精を出します。
しかしいきなりインドからやってきたラマヌジャンに対し、
他の数学者たちは冷たい態度でした。
ハーディーも数式の素晴らしさは認めるものの、
その数式の正確さを証明できなければ意味が無いと言います。
そこで二人はラマヌジャンが発見する数式の証明に取り組みます。
それにしてもラマヌジャンは無学なのにどうして、
次々と難しい数式を発見するのでしょうか。
彼のすばらしさを認めつつ、
ハーディーはラマヌジャンに訊ねます。
「どうやって(数式の)着想を得る?」
ラマヌジャンは答えます。
「女神ナマギーリが教えてくれる。
僕が眠っている時や祈りの時に舌の上に数式を置いていく」と。
ハーディーは無神論者であり、
ずっと数学一筋の人生で、
人と関わることも苦手としていたために、
彼の答えに戸惑うも最終的には、
「私は無神論者だが君のことは信じる」と答えます。
この映画を観終わって、
食事の支度をしている時に、
神を信じられない人ってかわいそうだな…と、
ふと思いました。
ハーディーの友人のリトルウッドも
同じようなことを言っていたし。
でも…(。´・ω・)ん? (。´・ω・)あれ?
じゃあ、神を信じられない人というのは…、
いったい何を信じているの?というように考えがいたり、
そしてすぐに、
無神論者は自分を信じているのではないかと思いました。
私は宗教は否定はしないものの、
神とは自分の外側や高いお空にいるのではなくて、
自分の中にあるものだと理解しているので、
それってアリなんじゃないの?って思いました。
宗教を信仰している人というのは、
神を自分とは別個に設定しているように私には見えるのです。
しかし、それだともしも窮地に追い込まれたときに、
神が味方してくれないような、
見放されたかのように思えやしないのかと、
ちょっと氣になってしまうところがあるんですね。
ただ自分しか信じられなくなるのもどうかとは思うのですが。
そこでライブ配信でお話させてもらったときに、
「一木(いちもく)、一草(いっそう)皆神である」
というコメントをいただきました。
宗教となると、
どうも神はうちの宗教の神様だけ!みたいに、
捉えられている方が多いのではないかと思うのですが、
コメントでいただいた言葉通り、文字通り、
この世界に存在するすべてが神であると私は解釈しているわけです。
神の創造物は神なんですよね。
蛙の子は蛙と言ったらだいぶ、
ニュアンスが変わって来ちゃうかもしれませんが(;^ω^)
だから自分も神であり、
あなたも神であるということですよね。
ただやっぱり、
あなたも私も神という言い方はややこしいでしょうか。
それであれば、
それぞれが神の一部と言ったほうがわかりやすいかもしれません。
一人一人、一つ一つはすべて神の細胞。
どれもとても大事な存在です。
細胞という言葉一つで片付けたら、
みんな一緒に思われるかもしれませんが、
それぞれにはそれぞれの役割があるわけです。
たとえば肝臓を構成している細胞と、
心臓を構成している細胞は同じ人間のものでも、
その周波数が異なるそうです。
その細胞でなくちゃできないことがあるのです。
私たち人間もそうですよね。
私の父は亡くなってしまいましたが、
父の代わりはいません。
顔や性格が似ている人はいるかもしれませんが、
所詮、似ているというだけで父はどこをどう探しても、
亡くなってしまった以上は、
もう今の私と同じ次元にはおらず、
父以外には私の父になり得ないということになります。
つまりすべての人が唯一無二の存在であり、
それぞれの役割を果たしているということです。
このことがわからなくなる…
正確にいえば忘れてしまうと、
途端に生きるのがつらくなってしまいます。
自分には価値が無いという無価値感は、
誰をも何を自分をも幸せにはできないのです。
「どうせ自分なんて」
こういう考え方、
持っていない人はほとんどいないと思います。
人間として地球に生まれてくる段階で、
必ず誰しもが背負って来るものだからだそうです。
「できない」をより多く経験しようとするストイックな魂ほど、
多めに持ち合わせて生まれてきているということでしょうね。
すべての答えはすでに自分の中に、
正確に言うと集合意識の中に存在しているということを
ご存知でしょうか?
まさにこの映画のクライマックスで言われているのですが、
私たちはただその答えを見つけているだけに過ぎずに、
自分やもしくは誰かが作ったものではないということです。
無学のラマヌジャンが、
どんな数学の権威者からも
不可能とされていた数式を発見するのは、
彼が頭でいろいろ考えているからではありません。
先に記したように、
神から授かったという表現のとおりであり、
要はそれを受け止められる用意があるかどうかということ。
ラマヌジャンは神を信じていて、
神が授けてくれるのだから、
そこに間違いがあるわけがないと思うわけですが、
無神論者のバーディーは、
それを裏付けるもの(証明)が必要だといい、
ラマヌジャンをやきもきさせます。
私のようにスピリチュアルにだいぶ重心が傾いている人間には、
スピリチュアルに理解を示しながらも、
現実的なものの見方の方に重心を置いている、
drake(id:kemoxxxxx)さんのような人が必要ということです(^▽^;)
つまりはバランスが重要であり、
そのコントラストがものをいうわけですよね。
土に種をまいても、
太陽のエネルギーが無ければ力強くは育ちません。
太陽のエネルギーだけでも、
コンクリートの上じゃ、
やはりうまくは育ちません。
地球と太陽両方のエネルギーが必要なわけですよね。
父と母がいて自分がいるように、
スピリチュアルだけでも、
現実重視だけでもなかなかうまくはいかないのです。
それをも経験するために生まれてきているのですから、
現実主義で生きることも、
スピリチュアルに没頭して生きるも自由です。
ただ充分に「できない」という感覚を満喫したら、
そろそろその対極にあるものをも
信じて生きてみるのもいいと思うわけです。
ここで改めて問います。
あなたは何を信じますか?
今日も最後までお読みいただきありがとうございました。
明日もすべての人々の心が平和でありますように♡